音楽は稼いだ!!

音楽エッセイ

神曲プロデューサー

 今さら僕が言うまでもないことだが、宇多田ヒカルは可愛い。
 しかし、宇多田ヒカルが可愛いことはみんな知っていても、宇多田ヒカルがものすごく可愛いことや、宇多田ヒカルがめちゃくちゃ可愛いことや、宇多田ヒカルがあり得ないくらい可愛いことまでは知らないのではないだろうか?

       * * *

 高校卒業後の一時期、僕は同じ高校出身のひとつ歳下の後輩H君とデュオを組んでいた。
 デュオといっても、なにか目立った活動をするでもなく、週に一回か二回、真夜中に落ち合って、スタジオでデモテープを作ったり、ビルの屋上でギターを鳴らしながらハモって階下の住人に怒られたり、河川敷でだべりながら「まずは吉祥寺の駅前でストリートライヴからかなあ」なんて有言不実行ぶりを晒したりしていただけだ。
 僕は20代最初の、H君は10代最後の、それぞれ貴重な時間を無駄遣いしていた。このまま二人でだらだら歌っていてもどこにもたどり着かないことはお互いわかっていた。けれど、どちらからも言い出せなかった。僕は夢をあきらめるにはあまりにも働く気力がなさすぎたし、H君は夢をあきらめるにはあまりにも歌がうますぎた。なにひとつ成し遂げられないまま30過ぎてどうしようもなくなった自分を想像するには二人とも若すぎた。

 ある夜、H君の車に乗って、行くあてもなく真夜中の川崎街道を西へと走っているときだった。会話が途切れ、信号がいくつも流れ過ぎ、やがてH君はなにか答えを探すみたいにしてカーラジオをつけた。若い女の子のパーソナリティがきらきらした声できらきらした近況を喋っていた。どこにでもいる可愛らしい普通の女子高生みたいな喋り方だったので、だいぶたって音楽がかかるまで、それが宇多田ヒカルだと気づかなかった。

 宇多田ヒカルの歌声はほんとうに独特だ。ハスキーヴォイス、の一言ではとても表現しきれない味がある。もし黄金が錆びることがあるのだとしたらあんな味になるのではないかと思う。けれどラジオで楽しそうに冗談を飛ばす宇多田ヒカルの声からはあの歌声の深さと苦味はまるで感じられなかった。宇多田ヒカルだと知らずに聴いているときにまず一度惚れた。
 記事を書き出す前は「これが僕のFirst Loveだった」みたいな締めにするつもりだったが、実際に文章にして自分で読み返してみたところあまりにも寒すぎるので削除した。僕にも羞恥心はある。

「ああ、これ、宇多田ヒカルだ」とH君は言った。
「ほんとだ。なんか普通の女子高生みたいに聞こえる」と僕は答えた。
 宇多田ヒカルは僕の五歳下なので、実際に当時は女子高生だった。どこにでもはいないし、まったく普通ではないが、可愛らしい女子高生だった。宇多田ヒカルだと知ってからもう一度惚れた。
 府中の僕のアパートまで戻ってきて、僕はH君の車のトランクからギターを下ろし、来週どうするといった話もせずに別れた。以来、彼とは知り合いの葬式で一回顔を合わせたきりだ。

       * * *

 十年以上が過ぎて、僕はtwitter上で宇多田ヒカルと再会した。くまの魅力について一心につぶやく彼女は、H君と僕のモラトリアムを蹴り壊してくれたあの頃と変わらず破壊的に可愛らしくて、僕はみたび惚れた。これが僕のThird Loveだった。あっ、けっきょく書いてしまった。

 そんな宇多田ヒカルの、僕しか気づいていない可愛さを世間に伝えるために書いたのがこの物語である。

 しかし、発売してしまった今、少し怖い。ひょっとすると世間もとっくに宇多田ヒカルが死ぬほど可愛いことに気づいているのではないだろうかという恐怖だ。だが、僕にはこの本という強固な証拠がある。とっくに気づいている人間が何万人いようと、最初に(単行本という形で!)明言したのは僕であるはずだ。現在、実用新案権の申請を検討中である。