旧ブログ消滅にともない、過去作の解説記事を書き直し中。
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さて、DBMS公式という数学定理があるのをご存じだろうか。
T = P ^ (1 + 0.038N)
数式中のTは執筆にかかる手間を、Pは一冊のページ数を、Nはその一冊に含まれる話数を示している。同じページ数であっても短編集であれば手間は何倍にもなり、何十編と収録されたショートショート集であれば天文学的な数字にまでふくれあがることがおわかりいただけるだろう。
この定理は僕が五年前、電撃文庫MAGAZINEのために『さよならピアノソナタ』のはじめての短編を書いている最中に発見した。DBMSというのはもちろん電撃・文庫・MAGAZINE・しめきりの略である。
そんなわけで三巻はシリーズ中いちばん手間がかかった。最初の短編『女王様の歌合戦』はネタ出しの労力を少しでも減らせるようにと僕の実体験が色濃く反映されている。
・Ave Verum Corpus(モーツァルト)
合唱コンクールの課題曲。僕の恩師であった高校の音楽の先生がこれを「この世で最も美しい音楽」と評していたのが忘れられない。授業でも実際に歌った。テナーパートは非常に簡単なので当時全然気づかなかったが、わずか46小節の間にイ長調やヘ長調への巧妙な転調が何回も行われている。高校生には正直難しすぎると思う。ラテン語だし。
我が恩師は僕が三年生になるときに転勤になってしまい、代わりにやってきた新任の音楽教師は授業で日本語のわかりやすい合唱曲ばかり取り上げたので、いやはや音楽の授業というのは特に担当教員次第なのだなあと痛感したものだ。
・聞こえる(岩間芳樹・新見徳英)
神楽坂のクラスの前年の自由曲。これもまた、僕の所属していた部活のOBたちが実際に文化祭にゲスト参加して披露してくれたものである。湾岸戦争当時の世相を反映した意識の高い歌詞が特徴的。
・Somebody to Love(クイーン)
ナオたちのクラスの自由曲。クイーン初期の代表曲。クイーンをまったく知らない人に最初に聴かせるのにうってつけの曲だろう。
これは、僕が部活で「やろうとして難しすぎてできなかった」曲だ。コーラスパートはなんとかがんばって採譜した(バンドスコアにけっこう間違いがあるので大変だった)が、その六部合唱の楽譜が使われることはついになかった。悔しいので小説内でリベンジしたわけだが、ソロヴォーカルありギターソロありのまったくもって合唱コンクール向きの曲ではないのでリアル高校生にはおすすめできない。
・Hail Holy Queen
そして神楽坂のクラスの自由曲。もともとは"Salve Regina"(幸いなるかな女王)という聖母マリアを讃えるアンティフォナを英訳したものだが(したがって厳密にいえばゴスペルではない)、映画でポップスアレンジされ一気に有名に。実際に音楽の授業の自由発表会でこれを演った女の子のグループがあって、そこではじめて僕はこの曲のすばらしさに気づいた。映画はずいぶん前に見ていたと思うのだが。
こちらは合唱コンクール用の曲としてたいへんおすすめ。ピアノと手拍子だけなのに実に見事に盛り上がるアレンジに仕上がっている。
第二話『ある天使の想い出に』の冒頭でエビチリが振った曲。チャイコフスキーの最長の、そして最も演奏に恵まれない交響曲だ。長いせいもあるが、なんといってもオルガンが必要なことが痛い。オルガン付きの交響曲というとサン=サーンスの第3番が有名で、あちらはうまくオーケストラと融和するように使っているが、『マンフレッド』のオルガンの使い方はそれはもう良く言えばインパクト極大、悪く言えばめちゃくちゃ無理矢理で、はじめて聴くとびっくりすること請け合いだ。チャイコフスキーの交響曲の中でもいちばん評価されていない曲で、録音例も他に比べて少ない。この曲を例外的に高評価していたユージン・オーマンディの指揮でどうぞ聴いていただきたい。
・ヴァイオリン協奏曲(ベルク)
続いてユーリが登場してのアンコール曲。章題『ある天使の想い出に』はこの曲に附された献辞であり、標題でも副題でもない。アルバン・ベルクが友人の娘の少女の夭逝を悼んで書いた曲で、奇しくもベルク自身も作曲直後に亡くなっており、遺作となった。ベルクは12音技法の大家なので当然この曲も無調なのだが、ベルクの曲の中ではいちばん聴きやすいと思う。
・ピアノ協奏曲第5番変ホ長調(ベートーヴェン)
ライヴでトモがミックスした曲の片方。ベートーヴェン最後にして最大のピアノ協奏曲で、『皇帝』の通称で親しまれているが、例によってこの通称はベートーヴェンがつけたものではなく英国で出版されるときに勝手につけられたものが広まったものだ。しかし、強烈なトゥッティの間をきらびやかなピアノ独奏が駆け巡る特徴的な序奏がいかにも「皇帝陛下の御成!」な雰囲気なので、世界的にこの名前が通用している。ピアノ協奏曲のオールタイムベストを並べるとなるとかなりの確率でトップに挙げられる定番曲。ライヴで使われたのは第三楽章の躍動的な6/8拍子のロンド。
作中で真冬の録音を使っているので、ここでもグールドのものをアフィる。グールド&ストコフスキーの『皇帝』といえばとにかく「遅い」ことで有名になってしまったが、聴いてみればわかる通り別に異常に遅いとは感じられない。むしろリズム構成が丁寧に聴き取れる名演だ。
・ヴァイオリン協奏曲(ベートーヴェン)
ライヴでトモがミックスした曲のもう片方。ベートーヴェンの唯一のヴァイオリン協奏曲で、これまたヴァイオリン協奏曲のオールタイムベストには必ず入るだろう名曲中の名曲。ティンパニの静かな4カウントで始まるという革命的な導入部を持つ。あまりにも特徴的かつシンプルなイントロなので、だれもパクれなかった。当時の作曲家はたぶんこれを聴いてみんな「こんな手があったかーっ!」と悔しさに悶絶したにちがいない。そしてもちろんテーマをいじくり回すことにかけては右に出る者のないベートーヴェンなので、この「1,2,3,4,ターン」のリズムはあちこちに姿を変えて顔を出す。
……と第一楽章を褒め称えたところで申し訳ないが、作中で使われたのは第三楽章の6/8拍子のロンド。この楽章、テンポも楽想もコード進行も前述のピアノ協奏曲第5番のロンドとそっくりであり、キーは半音ちがうもののピッチシフトして重ねるとひとつの曲になる。なるはずである。だれか実際にやってくれないだろうか。
・Star Spangled Banner(ジョン・スタフォード・スミス)
ライヴの最後の曲。ジミ・ヘンドリクスがウッドストックで披露したアメリカ合衆国歌の伝説的な演奏。ここからPurple Hazeにつながっていてしょんべんちびるくらいかっこいい。というかPurple Hazeがかっこいい。
・展覧会の絵(ムソルグスキー)
第三話『リズムセクション』冒頭、音楽準備室で真冬が弾いていた曲。「リモージュの市場」から「カタコンブ〜死せる者による死せる言葉で」がちょうど真冬の弾いていた部分。
ムソルグスキーによるピアノ組曲として生み出された本作は、おびただしい数のカバーを生み出したわりに、ラヴェルによる管弦楽版などが有名になりすぎて、原典のピアノ独奏版は忘れかけられていた。お聴きいただければわかる通り、そもそもが非常に管弦楽的に作られていて、減衰音楽器であるピアノでしっかり聴かせるのは非常に難しい。管弦楽版とピアノ版が両方入っているCDが都合良くあったのでそれをご紹介。
・Born to Run(ブルース・スプリングスティーン)
神楽坂が体育祭のリレーのときにすり替えた曲。スプリングスティーンの代表曲で、アメリカの底辺で戦い抜く者たちのエネルギーを歌った名曲中の名曲。キーボードがかなり前面に押し出されたアレンジながらスプリングスティーンの歌声のおかげでまったくハードさを失っていない。この曲は絶対にライヴ盤で聴いていただきたい。スプリングスティーンは典型的な「ライヴで化ける」アーティストで、その真価はスタジオアルバムだけを聴いていても絶対にわからない。
・展覧会の絵(エマーソン・レイク&パーマー)
第四話『つないだ名前』冒頭に登場するアルバム。前述のムソルグスキーの曲のEL&Pによるロックアレンジ。どちらかというとラヴェル版を参考にアレンジしたのではないかと思われる。もともとレコードとして出すつもりはなく、ライヴ限定の曲だったものが、海賊版が出まくってしまったために対抗するためにやむなく発売したのだとか。
途中にオリジナルの歌やブルース風のアドリブのぶつけ合いが挟まれていたり、終曲『キエフの大門』にも泣けるほどかっこいい歌がつけられていたり、キースによるオルガン破壊パフォーマンスの強烈な音が聴けたり、とEL&Pのライヴのすさまじさをたっぷり味わえる。正式音源としてリリースしてくれてほんとうによかった。アンコールの『くるみ割り人形』(チャイコフスキー)のロック版がこれまた素晴らしい出来。
・ヴァイオリンソナタ第9番イ長調
ユーリと真冬がスタジオで競演した曲。ルドルフ・クロイツェルという高名なヴァイオリニストに献呈されたため、『クロイツェル・ソナタ』の通称で知られている。ヴァイオリンソナタ中の最高傑作との呼び声も高い情熱的な曲。僕もこれがヴァイオリンソナタの頂点だと思う。
ベートーヴェンよりも前の時代では、ピアノとヴァイオリンによるソナタという形式はあまり洗練されておらず、たとえばモーツァルトは45曲もヴァイオリンソナタを書いているが、なんと初期作品では「ヴァイオリンは任意(なくてもいい)」などと書かれていたり、フルートだのオーボエだのに置き換えて演奏されてもいたりで、いかにヴァイオリンが軽視されていたかがわかろうというもの。
この第9番イ長調はベートーヴェンが「協奏曲風に競って奏されるヴァイオリン助奏つきピアノソナタ」とわざわざ題しており、実質イ短調である第一楽章の口喧嘩みたいな両者のせめぎ合いは手に汗握る緊張感を持っている。
・弦楽四重奏曲第1番《クロイツェル》(ヤナーチェク)
ナオと真冬がギターとベースで競演した曲。解説は作中でほとんどしてしまったのでここでは割愛。二人が演ったのは第一楽章のみ。
・Blackbird(ビートルズ)
第五話『クロウタドリの歌』で真冬が弾いた曲。いつものあの曲のピアノ版。ちょうどよくジャズピアノアレンジが見つかったのでご紹介。これがなかなか良い。でも真冬はジャズの素養はないのでもう少しちがうアレンジをすると思う。
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雑誌などに掲載した番外編的短編を本編の頭にしれっとした顔で組み込むというせこい技を、僕はもう何度もやっているのだが、この『さよならピアノソナタ3』が記念すべき一回目だった。我ながら巧く次の展開につなげられたものだなあ、と思う。電撃文庫MAGAZINEに『女王様の歌合戦』を寄せたときは、まだ三巻を書くかどうかすら決めていなかった。さて三巻を書くかという段になってまず決めたのは、ナオの恋のライバルを出そうということだった。担当編集に提出したプロットには、どんなライバルなのかまでは書いていなかった。決まっていなかったからだ。強力なライバルにしなければ、ということで最初はナオよりひとつ歳上の18歳、超イケメン超天才の鼻持ちならないやつ……みたいなキャラを考えて書き出そうとしてみたが、どうにも気が乗らない。そんなキャラ出して楽しいか? と自問し、二週間くらい悩んだ末に生まれたのがユーリだ。思い止まってほんとうによかったと思う。担当編集も「まさかこんなキャラとは思いませんでした」と驚きながらも僕の選択を支持してくれた。
ユーリのモデル(外見以外)となったのは、もちろんヤッシャ・ハイフェッツだ。外見は、たしかネットのどこかで見かけた海外の美形子役をイメージしていたのだが、植田さんの描いてくれたイラストがあまりにはまっていたのでそのイメージは吹っ飛んでしまって思い出せない。