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音楽エッセイ

グールドのビート

 三度同じ話で申し訳ないが、僕がいちばん好きなクラシックの作曲家がベートーヴェンだというとやはりみんな驚く。もちろん「えっ、小説で書いてることそのまんまだったの?」という驚きである。
 僕の両親はそろってクラシックが好きだったが、ベートーヴェンはまるで聴かなかった。とくに母親はとにかくオペラや歌曲が好きだったから、ベートーヴェンと縁がないのも無理のないことかもしれない。CD棚のベートーヴェンといえばカラヤンの振る第九とグレン・グールドの三大ソナタのアルバムくらいだった。そのグールドにしても、『悲愴』と『月光』はなかなか気に入ったものの、『熱情』の良さがさっぱりわからなかった。

 そんなわけで、僕がベートーヴェンを本格的に聴くようになったのは、高校に入って例の先輩と出逢ってからだった。
 先輩はのっぽで、猫背で、声がでかくて、詩人で、ピアニストで、音楽部の部長で、兼部していた吹奏楽部ではドラマーをやっていた。大槻ケンヂに歌い方がそっくりで、実際に筋肉少女帯を敬愛していた。ひとことで言って変人だった。家族をべつにすれば僕の人生に最も大きな影響を与えた人物だと断言できる、強烈な変人だった。彼はプロのミュージシャンを目指していて、卒業後は音大の声楽科に入ったらしいが、その後の消息は知らない。
 ひとつだけわかっているのは、今も音楽を続けているということだ。なぜって、一昨年の秋に最初のアルバムを出しているからだ。

 アルバムジャケットの右側の人物である。左側の相方との対比で、どれくらいのっぽなのかわかっていただけるかと思う。

 ……が、今回の記事はこのアルバムの紹介ではない(アフィブログなのでアフィるが)。ベートーヴェングレン・グールドの話だ。

       * * *

 先輩は自称ロッカーで、人生すべてをロックすることに血道を上げていた。口を開けばロックロックと言い続けていた。そんな彼の持論のひとつが「ベートーヴェンはロックだ」であった。
 僕はこの手の「ロックの源流はバッハだ」とか「ジャズのルーツはベートーヴェンだ」とかいう言説が好きではない。あまりにも当たり前の話だからだ。海の水と川の水は同じH2Oだ! みたいなことを大発見顔で言いふらしているのと変わらない。しかしそんな批判的な考え方ができるのも今だからであって、高校時代はそのロッカー先輩に言い返す言葉を持たなかった。実際に彼の弾く月光ソナタの第三楽章はまあたしかにずいぶんとのりのりで、ドラムスを叩いているときと表情が同じだった。
 そんな彼に、僕の家にあったグールドのベートーヴェンを聴かせてみたところ、彼は言った。
「グールドはロックじゃないな。バックハウスはロックだ」
 意味がわからなかった。

       * * *

 僕が最初に聴いたベートーヴェンピアノソナタ第32番ハ短調バックハウスの弾いているものである。アフィリエイトは貼らない。全然いいと思わなかったからだ。次にブレンデルのも聴いたが、やはり良さがさっぱりわからなかった。世間的に第32番はベートーヴェンの最高傑作のひとつとされているが、残念ながら僕には曲自体合わなかったのだろう、とあきらめかけた。
 なぜ最初からグールドのものを聴かなかったのかというと、行きつけのレコード店に置いていなかったからという単純な理由だ。作家生活二年目でようやくクレジットカードを作り、amazonの利用を始め、僕の世界は爆発的に広がった。べつにamazonアフィリエイトを利用しているからといっておべっかを使っているわけではない。ほんとうに広がったのだ。クラシックのCDなんて実店舗を回って目当てのものをそろえるのはまず不可能なのだ。
 そうしてこのアルバムを手にした。

Beethoven: Piano Sonatas Nos. 30-32 - グレン・グールド

 ベートーヴェンピアノソナタ最後の三曲が収録されている、グールドのセカンドアルバムである。どれもすさまじい演奏で、中でも第32番の第一楽章はほんとうにすごい。どんなにクラシックに詳しくない人でも一聴するだけですごさが理解できるのだが、これは前述のバックハウスなどのいわゆる「正統的な」演奏と聴き比べれば、という条件つきだ。
 なにしろめちゃくちゃ速いのだ。バックハウスの倍くらいのテンポで弾いている。この異常なテンポは発売当時にもすさまじい批判を巻き起こしたらしいし、グールド自身、このテンポ設定について後年言い訳している。いわく、普通に弾いたら聴いていられないくらいもったいぶってて恥ずかしい曲なので、この速度で弾き飛ばすしかなかった――とのことである。
 しかし、だれがなんと批判しようと、グールド自身が照れ隠ししようと、僕にはこのアルバムの第32番こそが素晴らしく、他のピアニストの演奏は退屈にしか聞こえない。なぜなのか、音楽ものの小説をつたない知識でだましだまし書きながらも、ずっと考え続けていた。

 答えらしきものをつかんだのは、ベートーヴェンピアノソナタの楽譜を(やはりamazonで)全部そろえたときだった。
 はじめて第32番ハ短調の楽譜を開いた僕は、グールドの行った楽譜無視がどれくらい大胆なものだったのかをようやく目の当たりにした。第一楽章の主部には、執拗にpoco ritenento(ここでいきなりちょいと遅くしろ)とa tempo(元の速さに戻せ)の速度指示が繰り返されていた。テンポをぐらぐら揺らして弾くのがベートーヴェンの与えた指示だったのだ。そうして直観する。グールドが嫌ってぶっ壊そうとしたのはこれだ。速いか遅いかは問題じゃない。ぐらぐら揺れるのが気に食わなかったのだ。僕が気に食わなかったのもそれだ。
 後にグールドのインタビューをいくつか読み、僕は自分の直観の正しさに対する自信を深めた。ピアノ独奏者が大仰に無責任にテンポを揺らすのをグールドはやはり毛嫌いしていた。彼にいくらか近づけたような気がしてきたので、グールドの他のベートーヴェンソナタも注意深く聴いてみた。
 はっきり確信したのは、ソナタ第12番変イ長調『葬送』の第一楽章を聴いたときだった。この楽章は変奏曲で、変奏ごとに性格がちがうので普通の奏者ならテンポも緩急をつけてしまうところだ。しかしグールドは主題と五つの変奏のすべてをほぼ同じテンポで弾く。とくに奇妙なのは第四変奏である。この変奏はたいへん音符の数が少ない。そのままのアンダンテの速度で弾くとすっかすかに聞こえるのである。だからバックハウスリヒテルもここはかなり速く弾いている。グールドはそんなことはしない。音と音の間の空虚を存分に味わえとばかりにアンダンテのままでゆっくり弾く。その意図は最終変奏に入った瞬間に明らかになる。同じテンポのままで走り出す三連符の流麗なリズムは、ため息が出てしまうほどの心地よい開放感をもたらす。テンポの統一が成し得た奇蹟だ。

       * * *

 ここまで我慢してマニアックな話を読んでくれた、クラシックにとくに興味のない読者諸氏に、いま一度訊きたい。
 あなたは、クラシック音楽の、とくに独奏曲における、あのもったいぶったぐねぐね揺れるテンポが嫌いではないだろうか。嫌い? 素直でよろしい。僕も嫌いだ。グールドも嫌いだった。理由は単純だ。クラシックだからといって難しく考えることはない。ぐねぐね揺れてたらのれないからだ。
 しかし、クラシックそのものに背を向ける前に、一度だけでいい、グールドを聴いてみてほしい。今はどこでなにをしているのかもわからないロッカー先輩も、もう一度グールドを聴いてほしい。聴けばわかる。グールドの演奏の根底で脈打っているのは、僕らがよく知っているもの、僕らの心を何度もキックしてきたもの、僕らをいつも熱くさせてきたもの、僕らがロックと呼んでいるものの正体だ。