音楽は稼いだ!!

音楽エッセイ

彼女のバリエーション

 僕は変奏曲が異様に好きである。
 変奏曲というのは、主題があって、それを様々にアレンジしながら繰り返していく曲だ。まずクラシック音楽の文脈でしか出てこない用語だけれど、現代の楽曲でもたとえばレッド・ツェッペリンのStairway to Heavenなどはだいぶ変奏曲に近い。
 なぜ好きなのか全然わからないのだが、とにかくお気に入りを並べてみると変奏曲ばかりだ。ベートーヴェンならピアノソナタの第12番、第30番、第32番、エロイカ変奏曲。ドヴォルザークなら交響曲第8番。ラフマニノフならパガニーニ狂詩曲。理由をあえて牽強付会するなら、変わっていく旋律の中に変わらない主題を見つけるのが楽しいから、だろうか。

 ところで、『変奏曲』という訳語は前々から疑問だった。これだと「演奏が変わっていく」ことしか言い表しておらず、「主題との変わらない関係性を保ち続ける」というもうひとつの意味合いがすっぽり抜け落ちてしまっているからだ。
 原語はなにかというとイタリア語のvariazione、英語でいえばvariationsである。そう、バリエーション。このカタカナ英語が、変奏曲の本質を最もよく言い表していると思う。バリエーションと聞くと、あなたはおそらく「中心となるなにか」を共有した「様々な色違いのもの」――みたいなニュアンスを受け取るのではないだろうか。まさしく変奏曲、である。

 しかし英語のvariationにそんな繊細な狭い意味はない。変化とか変動とか変容とかいう意味しかない。つまり訳の正確さからすれば「変奏曲」で正しいのだ。日本語というのはほんとうに不思議なものだ。

       * * *

 そんな事情があるのかどうか知らないが、日本の音楽関係者は変奏曲のことを“バリエーション”と呼ぶことが多い。その最たる例がこれである。

Brahms: Symphony No. 2 in D Major, Op. 73 - Variations On a Theme By Joseph Haydn, Op. 56a - Berliner Philharmoniker & Herbert von Karajan


 ブラームスの『ハイドンの主題による変奏曲』。正式な題名が長いこともあって、オーケストラ団員などはだいたい“ハイバリ”という通称を使う。ハイドン・バリエーションの略であることは言うまでもない。四音の略称が大好き、これもまた日本語の不思議なところ。
 ハイドン変奏曲は僕がいちばん好きなブラームスの曲であり、またあらゆる変奏曲の中でいちばん好きな曲でもある。この曲、主題と九つの変奏からなるのだが、その第9番目つまり最終変奏はパッサカリア――それ自体が変奏曲である。変奏曲の中にさらに変奏曲が含まれているのだ。まさにバリバリの変奏曲、という駄洒落を思いついたがあまりにもひどいので黙っておくことにする。

       * * *

 たまにインタビューなどで触れている、僕が小説家になるきっかけとなった「彼女」の話をしよう。
 彼女とは高校の音楽部で出逢った。同学年の新入部員どうしだったが、あちらは演劇部と兼部していてあまり部活に出てこなかったのでさほど仲良くなれず、正直なところよくわからないやつだった。
 卒業後、ふとした折に再会した彼女は芸者になっていた。向島のお座敷で毎日浴びるほど飲まされている、お稽古事の月謝がどれも高くてお金なんて全然残らない、坊主丸儲けってあれマジだね、どっかのでかい寺の住職に気に入られちゃって何度かデートもして迫られて困ってる……みたいな愉快な話をたくさんしてくれた。
 次に逢ったとき、彼女は小説を書き始めていた。目標としている作家は金井美恵子だそうで、何本か読ませてもらったけど重たくてぐちゃぐちゃでとりとめのない話ばかりだった。文学界だったか群像だったかの新人賞にも応募していたが、実ることはなかった。代わりに――というのもなんだかおかしな話だけれど――僕が小説家になった。
 その次に逢ったとき、彼女は芸者をやめていた。なにをしているのか訊くと、星占いをやっているとのことだった。自分の未来もよくわからんのに他人の未来についてなにか言えるの? と訊いてみたら、あなたも似たようなことやってるでしょ? と言われた。まったくその通りなので返す言葉もなかった。
 逢うたびにまるで予想もしていなかった道を予想もしていなかった方へと歩いている彼女だが、不思議と、どんな体験が彼女の口から語られても一度も驚きを感じなかった。次に逢ったときに宇宙飛行士になっていようが中南米の小国で大統領になっていようが驚かない自信がある。断片化されて語られる彼女の人生のそれぞれの変奏に、主題の痕跡がちゃんと感じ取れるからだろう。おそらく第三変奏あたりから聴き始めた僕にさえも。

 彼女が愛した音楽はリトルフィートザ・バンドジャニス・ジョプリン矢野顕子で、だから、僕が聴いたことのない彼女の主題はたぶんものすごく不幸なエピソードなのだろうなと想像してしまう。でも、もう何年も逢っていない彼女の顔を思い出そうとすると、きまって笑っているところなのだ。

       * * *

 ハイドン変奏曲でとくに好きなのは、短調長調の変奏が交互に繰り返されるところだ。哀しげな調べも、溌剌とした歌も、どちらかがどちらかの引き立て役ではないし添え物でもない。最終変奏のパッサカリアで、その共存は完璧なものとなる。繰り返されるベースラインの上で旋律がいつ短調の翳りの中に潜り込んだのか、それがいつ晴れて長調に戻ったのか、わからないほどに自然な移ろいだ。だから僕はこの曲を聴くといつも、太陽に向かって笑い泣きしている彼女のことを思い浮かべる。いつ涙が流れていつ乾いたのか、僕にはわからない。ただ、頬に残った痕を見つける。ずっと昔からたしかにつながっているひとつの曲が、今もまだ続いているのだ。